ツイッターよりサルベージ&リミックス㉚2011年08月06日(土)

(酔ってるよー、酔ってるよー。)

そもそも「少女たちの成長」という『止まらない進行』の要素を持ってるということが、他のジャンルの“ライフサイクルの転移”以上に、『アイドル』ということの持っている厳しい点で、だからこそその刹那に身を焦がすのであって、それは終わった後の焼け野原に覚悟を決めることもちょっと必要に思う。
その成長から衰退へのカーブを描く進行+アイドルというものが持ってる『成長』の宿命、にさらに無茶をして刹那に走ってるのがももクロ。正直明日誰か倒れてもなんか納得だもの。そういうある種の悲劇が背中に見えながら、それでも瞬間瞬間に燃えさせるんだからもうしょうがない。しょうがないんだ。

Z伝説?終わりなき革命?

Z伝説?終わりなき革命?

それこそ似たような酒の席で、あれは何年前だろう、辻と加護ってこれからどうなっていくと思う?って話をしたのさ。で今現在、実は半分は当たってる。もう半分は「まさかここまで」が正直ある。でもなんか『覚悟』はしてたさ。

AI KAGO meets JAZZ

AI KAGO meets JAZZ

そういうアイドルの話にかかわらず、お笑いなり芸能人なりに対して自分たちはある種「残酷な行為」をしてるんだよ。だって「人を消費」してるんだもんな。
もちろんその分、人並み以上のバック(お金的に)はあるんだろうにしても(でそれもダンピングに向かってるし)、だからといってその「残酷さ」が全てOKではないでしょ。

その「残酷さ」から逃げたいがために、「あの時ああしていれば」なり戦犯探しなりをしてもしょうがない。例えそれが突発的な出来事がキッカケであったとしても、後から眺めると「それは時代の必然だった」ってことが往々にしてある。反省するなり糾弾するなら「足を踏み入れてしまった己自身」だよ。

そこでまた「愛することから臆病になる」のもよくないわけだが、そこに行きたくないからと言って、誰かのせいにし続けてもなーんもならん。
その「残酷さ」を認識した上で、『正しく飽きる』ということかな。


そしてそのプロダクトライフサイクルとしては衰退期に入っているであろうテレビ・・・とはいえ、「いつからそうなったか」が「随分前だとは思うがはっきりしない」ぐらい長く粘ってるよ。中の人ががんばって新しいアイデア出し続けてるからなんだろうな。

ただ「全く失くなることはないだろうけども今後も衰退へは向かう」というのがやっぱ冷静なところに思う。とはいえ、そういう中でも新しい知恵が作品が産まれる・・・それがやっぱり面白いから見てしまう。背中には終局が見え隠れしても。

内輪内輪になってくってのは、そもそも「映画スターを茶の間に連れてくる」というところから始まったんだから、ある種テレビの宿命であって、「必然的な流れ」だよ。それにどこまでついてくか。
内輪のことを知れば知るほど「テレビは」面白く楽しめるだろう。でもそこまでやんなきゃいけないの?はもちろん間違ってない・・・んだがもうそれは降りるしかない気がする。単発単発で揺り戻しはあるだろうけど、大局的はもう多分止められない。残念だけど。

すべては無情にも必然的な“ライフサイクル”でいつかなくなってく。けれども好きになったり愛したりを止めないと。♪甘いニヒリズムが笑う時にも and love and love and love and dreams and love and dreams for all♪だ。