ツイッターよりサルベージ&リミックス2-⑪2012年01月11日(水)[2]

浅草芸人 ?エノケン、ロッパ、欽ちゃん、たけし、浅草演芸150年史? (マイナビ新書)

浅草芸人 ?エノケン、ロッパ、欽ちゃん、たけし、浅草演芸150年史? (マイナビ新書)

「浅草芸人」みたいなアプローチの文章は今までにもたくさんあったはず。しかし「テレビ以降」しか知らない世代が大勢になってる今のタイミングだから面白い、って要素はあると思う。

あるいはこういう言い方・・・関西の笑いが全国に本格的に侵食していってすっかり馴染んで、それによって東の笑いの独立性が薄れたのを「漫才ブーム」のころとすると、それ以前をリアルタイムで空気感ごと知ってるのって、四十代半ば〜五十代以上になってるでしょ今や。・・・という「高年齢化」。

例えば自分だったら、物心ついてから見た記憶があるのが「末期の欽ちゃん」だから、そこから多少遡って70年代後半ぐらいはその空気感・ムードも分かる(ような気がする)けど、

それ以前は、知識として仕入れられても、いかにその時代において凄かったか、面白かったかということまでは感じられない。・・・そういう私がもうこういう年齢wなんだから。。。

そうやって「テレビ史観」にまみれた自分達が、現代からの逆算で演芸史を知ろうとしても限界があって、なのになまじいい年齢になってきてるからそこらへんを間違えたりする・・・という中で、遠い昔からこちらに向ってあの本が書かれたのはいいタイミングかもしれないと。それ故に、序盤が「歴史の教科書状態」で読み辛い・・・もあるんだろうけど(自分もあった)。

あと、これは本の本筋ではないんだろうけど、時代の変化、舞台→映画→テレビという変化に翻弄されたりあるいは逆にそれを利用したりする、人間ドラマの側面も、自分的にはタイムリーだった。というのは紳助の引退というのも、またひとつの「時代の移り変わり」の象徴のように自分は感じていたから。

紳助は嫌いだけど、さんまとの思い出話やってるのは好き、って人は結構いたと思う。前のなんば花月や前の京都花月が舞台だったりしたその話の端々には、漫才ブーム以前の、昭和の寄席のフレーバーを感じるんだよね。現在だと今田・東野辺りが「古き良き寄席のエピソード」をちょこっとやったりするけど、当然時代が大きく違うので感じるものも違う。

上岡龍太郎の引き際も「時代じゃないから」と言うようなことだったと思う。そういうものを自分で感じた。で紳助も・・・ってここをいっしょにすると怒られもするんだろうけど、でもね、「悩んだ末にヤクザとの仁義の方を取った」ってのはやっぱり。で紳助も「時代が・・・」とか実際に言ってたと記憶。

で、テレビの時代もここにきてなんだか・・・って映画やラジオ→テレビの時のように「次はネット!」ってなもんでもなさそうだけどともかく、また何か時代の移り変わりの予感もあり、となるとまた、その流れに乗ったり乗れなかったりの人間ドラマが産まれもするんだろうなあと。

(まあそういう大局的なものの見方できずに、自分の少年時代の思い出補正、それも「90年代頭こそ至高」なんて中途半端なところにポイント打つなんてもってのほかだわ・・・)